◀︎▲元文3年(1738)の井波町絵図瑞泉寺の左側に城跡、右側には寺内の寺々が並んで、瑞泉寺の門前には町川が流れ、その両側に家並が軒を連ねている。町川の先にある大谷川(現在の大門川)に架かる橋を渡った通りが新町とある。また、門前の八日町通りの左右には、段違い状に左には六日町通り、右側に三日町の通りがある。ともに上使道として、庄川の渡しと、城端の町と繋がる往来である。この頃、井波町には家数が285軒、約1,600人の町人が住んでいた。この町絵図には鍛冶や大工の拝領地、町役人、土地を持たない町人(頭振)の家屋の記号もある。また、他の井波町絵図にはない五箇山への峠に向かう路も描かれている。〜年表でみる井波瑞泉寺 千秋謙治編より〜
■この道一筋に技能の研鑽につとめ、大臣表彰、褒賞、叙勲を受けた名工が多く出る ■日展を始め、各種の中央、地方展の入選者80名を数え、日展審査員賞、会員、評議員等の有名作家も多く輩出、美術工芸品としての評価が高まる ■井波彫刻に魅せられ、全国各地から入門する若者が続き、今では彫刻技術者200人を超える。井波の人口の40人に1人が彫刻師という「日本一の木彫りのまち」として知られるようになった